日本の量子産業技術戦略と現状
前報で現在のAI/半導体技術の壁を乗り越えるには量子技術が重要と述べた(参考資料1)。既に報告したが、米国では既に2018年9月に国家科学技術会議(National Science & Technology Council)科学委員会(Committee on Science)の下部機構である量子情報科学分科会(Subcommittee on Quantum Information Science)から、「量子情報科学の国家戦略全容(National Strategic Overview for Quantum Information Science)」が発表されており、それに基づいて2018年12月に国家量子イニシアティブ法(National Quantum Initiative Act)が施行されている(参考資料2)。
日本でもそれに呼応するように2020年1月21日に内閣府統合イノベーション戦略推進会議より「量子技術イノベーション戦略(最終報告)」が公表された(参考資料3)。同会議では座長が小林喜光三菱ケミカルホールディングス取締役会長、途中から五神真東京大学総長がなり、五十音順で荒川泰彦東京大学ナノ量子情報エレクトロニクス研究機構特任教授以下、産官学のメンバー6名で構成されていた(以下内閣府戦略)。最終報告の結論はロードマップの形でまとめられている(以下内閣府ロードマップ)。
そこでは国内外の状況を議論し、ゲート型量子コンピュータ(超伝導量子ビット)からネットワーク化技術(構築、運用、保守等)までの要素技術13件と、量子AI技術から量子セキュリティ技術までの応用技術5件に分類して、全容が線表で詳細に表示されている。
現在内閣府ロードマップ公表から満5年経過しており、また区切りの時期でもあるので、この5年間の成果を見てみようと思った。もちろん内閣府戦略や内閣府ロードマップは国の方針を決めるものであり、その限りでは筆者がとやかく言える立場でもない。しかし強いて結論を言えば内閣府戦略は、海外も含めた世界レベルとしての量子産業技術全般のロードマップなのか、それともそれを踏まえた日本のこれからのロードマップを示しているのかが明確ではないのが残念であった。両者が混在しているため現時点の日本の技術開発成果を分離して言及するのが困難な案件もある。
しかも米国の戦略中で明示されている産官学の分担や相関も、内閣府戦略にははっきり書かれていない。更に米国の場合PDCA(Plan、Do、Check、Action)が明記されているのに反し、内閣府戦略ではその仕組みが示されていないのも遺憾であった。欧米ではISOの精神が普及しているので、戦略上でもPDCAや数値目標が明確である。内閣府戦略では明記されていなくても、各部局で実態を見据えてそれなりにPDCAは回っているのだろう。そう期待したい。
現状把握に参考になったOPIE’26見学と小冊子「量子新最前線」
調査中に、2026年4月22日から24日までオプトロニクス社のOPIE’26(Optics & Photonics International exhibition 2026)(参考資料4)が開催された。筆者はこの展示会がいつも技術動向調査に手頃なため、極力毎年見学するように心がけてきた。今回の特徴はオプトロニクスと一般社団法人量子フォーラムとの共催で「量子イノベーションフェア」も新設された点にある。会場で入手した小冊子「量子新最前線」(参考資料5)には奥付も無く発刊年月日や発行者の記載が無いので、セミコンポータル読者に参考資料として掲げても入手困難で不適切かと心配である。しかし本稿作成時に参考資料として使用させて頂いたことは事実なので、その意味で明記することにした。以下は参考資料を入手できなくてもセミコンポータル読者には理解できるよう留意しながら記述したつもりである。なお、(一社)量子フォーラムの代表理事は上記量子技術イノベーション戦略のまとめに参画された荒川泰彦 東京大学名誉教授である。荒川教授に関しては過去拙著でも先生の過去の御業績を詳しく報告している(参考資料6)。
参考資料5には「量子イノベーションフェア開催に当たって」と題してその荒川教授の巻頭言が掲載されており、そこではこのフェアは「量子技術の現在地と未来像を共有し、新たな発想や連携が生まれる機会を提供」すると記されている。この資料でQuantum Newsとして取り上げられているのが最近の成果の具体例であろう。
量子技術の現状が、よくまとめられているので、以下内閣府ロードマップで2005年が矢印の終端になっている項目を抽出し、上記Quantum Newsの内容を比較しつつ、後者を骨子としながら量子コンピュータ、量子センサ、量子通信の3分野に分けて順次紹介する。なお、参考資料5は主に光量子技術を取り扱っているので、量子技術全般をカバーしている内閣府ロードマップの一部に過ぎないが、それでも最近の量子産業技術動向を知ることはできる。
<量子コンピュータ>
オキサイド社(参考資料7)が「量子コンピューター(電気・機械学術用語と異なる場合は引用資料を優先)に重要な量子状態を生成する中核電源」として紫外レーザーを完成させて、初号機の出荷も完了したとプレスリリースで述べている(参考資料8)。これは内閣府ロードマップでまとめられている超電導ゲート型量子コンピュータや、他の手法も支える重要な要素技術である。超電導と超伝導の区別は応用技術の場合は前者として表記する。
またNTT、東京大学、理化学研究所、OptQC(参考資料9)は「世界最高の量子ノイズ圧縮を達成」したと報道している。量子ノイズを圧縮する技術の詳細の理解は困難でも、ノイズを圧縮すればするほど誤差の少ない量子計算が可能になるというのは筆者のような素人でも素直に理解できる。内容はNTTのニュースリリース(参考資料10)に詳しいのでご興味のある読者はそれをご覧頂きたい。この成果は残念ながら内閣府ロードマップとの対応が不詳であるが、誤り耐性向上にもつながるのでロードマップの中の、量子中継技術やネットワーク技術に関連する項目の範疇に入るものと捉えている。
<量子センサ>
東京大学、量子科学技術研究開発機構、岐阜大学、大阪大学量子情報・量子生命研究センター、東京大学先端科学技術研究センター、米国国立衛生研究所などで構成された共同研究チームは、モデルマウスを用い、複数のアミノペプチダーゼ活性の同時検出に成功している(参考資料11)。超核偏極技術を駆使してスピンの向きを揃えたMRI(磁気共鳴画像)を用い、NMR(核磁気共鳴)/MRIの検出感度を著しく高めた量子センシング技術によるものであり、多重解析手法を使うとのことである。超核偏極技術の説明も参考資料11には詳しい。これも内閣府ロードマップには直接の記載は見当たらないが、同資料の応用技術編で取り上げられている量子生命科学(量子技術を用いた超高感度MRI/NMR)の範疇にも関連する技術と考えられる。
同じく量子センサ分野では東京科学大学とハーバード大学が「ダイヤモンド量子センサで磁性材料の交流磁気特性を可視化した」と発表している(参考資料12)。これも直接合致する項目は無いが内閣府ロードマップで、固体量子センサ(ダイヤモンドNV中心など)のページに対応する進歩である。ダイヤモンドNV中心(Diamond Nitrogen-Vacancy Center)は格子欠陥として量子状態を室温で維持できるため注目されている(参考資料13)。
<量子通信>
KDDI、KDDI総合研究所、ノキアソリューションズ&ネットワークス、東芝デジタルソリューションズは現在のネットワークにも搭載できる耐量子セキュリティ技術を開発し、テラビットクラスの大容量データ伝送を大阪市内の商用ネットワーク上で実証した(参考資料14)。これは内閣府ロードマップで、要素技術の量子通信・暗号リンク技術と、応用技術の量子セキュリティ技術に関連すると思われるが、これもロードマップには直接対応する文言は見当たらない。
また、東京理科大では光ファイバ内に直接単一光子を生成(参考資料15)する技術を発表している。これは光量子通信技術に欠かせない技術である。これは量子産業技術の中でも光量子技術分野の進展が速いということを示唆しているのかもしれない。
さらに、東北大学と情報通信研究機構は光子の偏光状態や量子もつれ状態を低損失で切り替えるルーターを開発したと発表している(参考資料16)。これは内閣府ロードマップの量子中継技術光回路に関連する成果である。
主なワールドクラスの学会誌や学会動向調査から得た量子技術の発表例
以上はOPIE’26の資料を基に調査した結果であるが、それだけでなく、筆者が広く学会誌や学会動向から量子産業技術の現状を検索した結果では、例えば世界的にはJPMorganChase、Quantinuum、米国のアルゴンヌ国立研究所、オークリッジ国立研究所(ORNL)、テキサス大学オースティン校(UT Austin)からなる研究チームから、ゲート型量子コンピュータ(超電導量子ビット)に関しては量子計算を用いた乱数生成も可能になったという成果(参考資料17)もヒットする。
また量子超越性の実証に関して、量⼦超越性の存在そのものが暗号の基盤と密接に結びついているということが判り、それは情報セキュリティ分野にとって重要な意味を持つのだという成果を発表した京都大学からのニュースリリース(参考資料18)もある。
このような近年の成果も内閣府ロードマップとの関係は不詳である。そもそも内閣府ロードマップがワールドクラスとしてのロードマップなのか、日本のロードマップなのか明確でないことが、曖昧さの原因になっている。もしワールドクラスのロードマップならこれらの成果にも等しく言及しなければならない。折角の成果の一部には内閣府ロードマップとの関連が不明確で、ロードマップ自体の評価を考えるとき、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感がするのも残念である。
このように見ていくと公表5年経過後の現時点で内閣府ロードマップに関連する成果と共に、直接内閣府ロードマップに該当する文言が見当たらない分野での成果も多数出ていることが判る。但し誤解のないように記しておくが、あくまでもロードマップ上の記載の有無と、成果の評価とは別問題である。筆者が言いたいのはロードマップの定期的な見直しの必要性であって、研究成果そのものについては、関係者の技術進歩に貢献されたご努力に敬意を表したい。
優れた戦略を生かすにはPDCAを回す努力が必須
以前、筆者は熊本県産業技術顧問に就任していた時代に、2009年6月3日から2010年3月31日まで「地域企業のための熊本県知的財産活用戦略策定委員会」委員として熊本県の知的財産戦略策定に関与したことがあった。委員長は元熊本大学学長で同大学名誉教授であり、当時の熊本県産業政策顧問であった元達郎先生(参考資料19)であった。そのころまでは熊本県は他県に比較して知的財産戦略策定が遅れてはいたが、関係者の努力でPDCAが回るような項目を明記して挿入し、定期的に見直すシステムを提案できたと認識している。
その後不幸にして同県は地震や水害などの災害が相次ぎ、必然的に戦略見直しを余儀なくされた。その都度、実績に基づいた戦略策定がなされており、今や熊本新時代協創基本方針および総合戦略(参考資料20)に至っている。そしてそれは特許庁からも発表されている資料(参考資料21)を見ても明らかなように、極めて詳細な現状分析の下に戦略が策定されている。特許戦略に限らず、これは一般の戦略策定にあたり模範的なモデルケースとして取り扱えると思う。加えて、熊本県は戦略の県内展開も図っており、例えば熊本市にもブレークダウンされて積極的な取り組みがなされている(参考資料22)。
繰り返して強調したいが、戦略にはPDCAが回るような項目を明記することが必要だと思う。戦略を立案する場合、PDCAを回すような仕組みを明確に記述し、区切りの時期ごとに成果を直視して、その都度戦略を見直すような仕組みが必要で、これは重要度の高い戦略ほど扇の要ではないかと愚考する。これは筆者が過去ISO9000s審査員やISO14001主任審査員であった経験から学んだことでもある。
人材育成に関しても、折角内閣府戦略にはその項目もあり検討されていたものの、5年経過後に実際にどの程度実現したのかが明確ではない。米国の戦略でもこの人材育成に関して苦労している様子が窺われ、それは既にまとめて報告している通り(参考資料23)なので、ぜひ日本でもしっかりトレースをして頂きたい。早く学会で半導体技術と同様な、独立したセッションが複数誕生するくらいに発展してほしいと思う。筆者の不勉強による杞憂であってほしいが、半導体事業勃興期を思い出すと、日本における量子技術勃興期はまだ遠いのではないかと危惧している。もう量子産業技術の勃興の兆しが見えていても時期尚早ではない。
謝辞
いつものように津田編集長には丁寧な査読をして頂いた。また筆者が熊本県知的財産活用戦略策定委員会に参画できたのは現在熊本県商工労働部商工政策課主幹元田美智子氏(当時の同県参事)の御配慮によるものであった。拙稿の戦略策定委員会委員長名に関しては元田氏による当時の委員会名名簿確認の労に基づく。また当時熊本県のセミナーなどの催事では田副勝裕氏(当時熊本県商工観光労働部参事で現在人吉市役所に出向し同市経済部長)の御配慮も頂いた。合わせ厚く御礼申し上げたい。
参考資料
1. 鴨志田元孝、「量子技術の実用化を見据えて」、セミコンポータル、(2026/03/27)
2. 鴨志田元孝、「米国の量子情報科学産業振興政策からわかる国家戦略」、セミコンポータル、(2026/05/26)
3. 内閣府統合イノベーション戦略推進会議、「量子技術イノベーション戦略(最終報告)」、 (2020/01/21)
4. 「OPIE'26 – 光とレーザーの最新技術・製品・情報が集結!」、(2026/04/22-24)
5. 量子テクノロジーダイジェスト版「量子新最前線」OPTRONICS(OPIE’26で配布)
6. 垂井康夫・赤城三男共編「世界を先駆ける日本のイノベーター」のpp.1-36、鴨志田元孝、荒川康彦(第1章)、「量子ドットデバイスの提案と実現」、オーム社刊、(2013/01/25)
7. 「オキサイド | 豊かな未来を光の技術で実現」、オキサイド社のホームページ
8. 「オキサイド、量子コンピュータ向け紫外レーザ光源の販売を開始」、オキサイド社プレスリリース、(2026/03/09)
9. OptQC社のホームページ
10.「導波路型光デバイスによる世界最高品質のスクイーズド光生成に成功〜信頼性の高い実用的な光量子コンピュータの実現に大きく前進〜」、NTTニュースリリース、(2026/03/05)
11. 「量子センシング技術を活用した生体内における複数のアミノペプチダーゼ活性の同時検出―腫瘍の高精度分類と抗がん剤の早期治療効果判定への応用性を実証―」、量子科学技術研究機構のプレスリリース、(2026/02/27)
12.「ダイヤモンド量子センサで磁性体のエネルギー損失を可視化」、東京科学大学プレスリリース、(2025/05/26)
13. 「ダイヤモンド窒素-空孔中心」、Wikipedia
14. 「商用ネットワーク上で耐量子セキュリティ技術を活用した大容量データ伝送に成功」、KDDI総合研究所プレスリリース、(2026/02/18)
15.「光ファイバー内の単一原子を選択的に励起し、単一光子の生成に成功〜光量子通信ネットワークにおける高効率な伝送技術への応用に期待〜」、東京理科大学プレスリリース、(2025/10/16)
16. 「量子もつれ光子ルーターを開発し伝送経路の切り替えを実証─量子情報ネットワークへの応用に期待─」、東北大学大学院理学研究科、理学部ニュースリリース、(2025/09/25)
17. 「量子コンピュータで「真の乱数」の生成に世界で初めて成功」、XenoSpectrum、(2025/03/31)
18. 「世界初、量子超越性と暗号の安全性が等価であることを証明〜従来とは異なるアプローチによる量子計算機の優位性を特徴付ける新たな理論的基盤」、京都大学ニュースリリース、(2025/06/27)
19. 元達郎熊本大学名誉教授で元熊本大学学長、Wikipedia
20. 「『くまもと新時代共創基本方針及び総合戦略』の策定について」、 熊本県ホームページ、(2024/12/25)
21. 「熊本県における知財活動の概要」、特許庁ホームページ
22. 「令和7年度熊本誌知財経営支援モデル地域創出事業(ちざまるプロジェクト)調査報告書」、 有限責任監査法人トーマツ、(2026/03/31)
23. 鴨志田元孝、「一朝一夕にはできぬ労働力・人材育成の難しさ(前編)(中編)(後編)、セミコンポータル、(2022/09/09)


