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ライト兄弟が初飛行に成功した「ライト・フライヤー号」を訪ねて

ライト兄弟が初飛行に成功した「ライト・フライヤー号(Wright Flyer)」を訪ねて、広島県府中市にあるヒロボー株式会社(以下、ヒロボー)の「ライブファクトリー(Live Factory)」を今年3月に訪問した。この会社は無線操縦の模型ヘリコプターや農薬散布用の無人ヘリコプターなどの開発、製造、販売を行っており、無線操縦の模型ヘリコプターでは世界のトップブランドである。従業員の中にはラジコン・ヘリコプターの世界選手権で何度も優勝した人がおり、NHK「プロジェクトX」(2005年02月01日放送)でも「町工場 復活のヘリコプター」として紹介され、まさに知る人ぞ知る会社である。

訪問したヒロボーの「ライブファクトリー」は本社から少し離れた工場団地の中にあり、多くの人が気軽に訪問して楽しく見学できる従来にない新しいタイプの工場を目指して2006年5月に開設され、ものづくりの楽しさを共有できる交流の場となっている。

約100年前の1903年12月、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した「ライト・フライヤー号」の操縦席を再現した操縦シミュレータが、今年3月に「ライブファクトリー」に設置された。この操縦シミュレータの見学が今回の訪問の目的である。

この「ライト・フライヤー号」の操縦シミュレータを設置するにあたり、ヒロボーからまず東京大学航空宇宙工学専攻の鈴木真二教授へ相談があり、ソフトウエア部分は大学で作り、操縦席部分はNPO法人「大田ビジネス創造協議会」に製作依頼があった。大田ビジネス創造協議会と東京大学は、社団法人「日本航空宇宙学会」が毎年開催する「全日本学生飛行ロボットコンテスト」を共同で運営している。筆者は大田ビジネス創造協議会の理事も兼務しているので、操縦シミュレータの設置が完了したことの確認も兼ねての訪問となった。

この操縦シミュレータは、前方に大きなコンピュータグラフィック画面があり、ライト兄弟が初飛行した米ノースカロライナ州キティホーク(Kitty Hawk)の砂漠が再現されている(余談ながら、米空母「キティホーク」の名前はこの地名に由来するという)。操縦者は操縦席で腹ばいになって左手で操縦桿を握り、前後に動かして機首を上げ下げする。腰当て部分を左右にスライドさせて、機体を左右に動かすのであるがこれが難しい。下の写真は筆者がシミュレータの操縦桿を真剣になって操作しているところである。写真の右前方に大きなコンピュータグラフィック画面がある。右側のスイッチ類は操縦シミュレータを起動するためのもので、当時のものとは関係がない。

筆者が操縦シミュレータの操縦桿を操作しているところ
筆者が操縦シミュレータの操縦桿を操作しているところ


ヒロボーは元々広島紡績(株)という紡績会社で、松坂敬太郎社長の父松坂美登氏が1949年に設立し、1970年にヒロボーに社名変更した。松坂社長は1968年に東京の大学を卒業し、地元に戻って父親の広島紡績に入社したが、一方で同じ年に祖父の経営していた繊維会社は倒産している。この頃、日本の紡績業界は大変動の時代に突入している。1971年3月には対米繊維輸出自主規制による過剰織機の廃棄、同年8月には米ドルの金兌換停止を含む経済政策いわゆるニクソンショック、1972年1月には日米繊維協定の実施など紡績業界には逆風が吹き荒れ、円高や日米の繊維摩擦により日本の繊維業界は急激に輸出競争力を失って構造不況の時代へと入っていった。その結果、ヒロボーもその渦中に巻き込まれ、1973年に紡績事業を断念。その後10年をかけて紡績業からの業種転換を試みて、無線操縦ヘリコプター分野で世界のトップブランドとなった経緯がある。

紡績から他の業種へ転換するといっても簡単ではなく、ヒロボーの場合にもボウリング場、ガソリンスタンド、レストランなどさまざまな事業を手がけたという。ボウリングはブームで、ガソリンスタンドもマイカー時代の到来でそれぞれ成功し、田舎での郊外型レストランもよく目立ち3年ほどは順調であったが、新たな参入者が相次ぎ結局は事業を止めてしまった。この頃(松坂氏28歳)父親が病気で倒れ、松坂氏が実質的に会社を経営することになり、1979年に正式に社長を引き継いでいる。父美登氏は何度も手術を受けながら79歳まで闘病生活を続けることになる。

電気の遮断器(ブレーカー)を製造する大手電気メーカーの下請けや卵のプラスチック容器の製造など、新しい事業を求めていろいろな試みを行う一方で、松坂氏は世界一になれる事業を探すために2週間かけて単身でヨーロッパを回り、まずミニカーの製造に目をつけた。松坂氏自身でもミニカーを3000台も持っていたのでミニカーの何たるかがよく分かった。ミニカーなら英マッチボックス社が有名であり、この下請けとしてやっていくかどうかを思案したが結局この道は選ばなかった。次に父親が好きだったラジコン・ヘリコプターをドイツで見て、これで世界一になろうと決断する。3代目の道楽と幹部社員から猛反発を受けながらもやり抜き現在のヒロボーとなった。

といえば簡単に聞こえるが、このような業種転換を図ることの難しさは、筆者の想像の範囲をはるかに越えている。紡績業から無線操縦ヘリコプターへの業種転換は松坂氏本人にも非常に大きなプレッシャーであり、従業員の方々も大変な苦労を経験している。ヒロボーの専務取締役の方から頂いた手紙には「私どもはここ府中で産声を上げ、60年が経過しようとしています。その間、業種転換の辛苦を経験し多くのことを学びました。どん底からはい上がって現在の事業を営んでおります」とある。

無線操縦ヘリコプター(出典:ヒロボー株式会社)

無線操縦ヘリコプター(出典:ヒロボー株式会社)(注1)


なお、ヒロボーの事業転換の経緯に関しては松坂氏のインタビュー記事(注2)に詳しく述べられており、業種転換の実例としてたいへん参考になったので紹介しておく。




注1:http://www.hirobo.co.jp/
注2:http://www.tac-school.co.jp/netnews/interview/int_083.html
   http://www.tac-school.co.jp/netnews/interview/int_084.html


光和技術研究所
代表取締役社長
禿 節史(かむろ せつふみ)

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