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アントレプレナーが進めるイノベーション(下)

前回はわが国のアントレプレナーについて述べたので本稿では、多数誕生したアメリカのアントレプレナーを論じて見よう。1840年代に始まったゴールドラッシュでも解るように、アメリカ人は競争が好きで自分の力で富を築きたいという欲望が強い。日本でも金鉱は発見されているがゴールドラッシュは発生していない。自分の力で富を築きたいという発想は、同一民族が相和して仲良く住み分けるという日本人が慣れたものとは違う。

第二次大戦後、米国は世界の頭脳を招請した。戦後昭和23年に湯川秀樹はプリンストン高等学術研究所から迎えられ客員教授になったし、江崎玲於奈もIBMから三顧の礼で迎えられた。プリンストン高等学術研究所はノーベル賞受賞以前に湯川の偉業を発見して迎えたのである。

米国は早くから大学院制度を整備しPhD(博士)のホルダーを育てた。加えて1-2年で終了するMBA(経営学修士)制度を作り4年制の学部卒で意欲あふれる若者を選別しMBAを与えるようにした。企業は、PhDやMBAを持つ人材を採用し重要な仕事を委ね成果を競わせた。世界一となった半導体メーカーのインテル社のトップには、ムーア、ノイス、グローブ等々のPhDが多い。筆者が5月に書いたようにTSMCの創始者のモリス・チャンはTIで多いに活躍したが、PhDかつMBAの持ち主でもある。このような状況を見るにつけわが国のPhDがオーバードクターになって就職で苦労し意欲をなくしている現状は、相当におかしな状態だと言わざるを得ない。


筆者がわが国とアメリカを対比して書くのは日本が持たないアメリカの強さを論ずることで読者と共に学びたいからである。

後にTencor社と合併してKLA-Tencorになり製品群をずいぶん多角化したKLAインスツルメンツは、LSI用フォトマスク検査装置の専業として、ケン・レヴィーとロバート・アンダーソンが1976年に設立した。筆者もお世話になった会社だ。レヴィーは露光装置専業のコビルト社で半導体ビジネスを学び、LSI用フォトマスクが完全でないと半導体事業は成り立たないことを知った。レチクルと称する原版に欠陥があれば全てのフォトマスクに欠陥が転写される。このようなレチクルから作られるLSI製品には一つも良品が含まれないという恐ろしい事態になる。レチクルを妥協なく検査し不良品をはねて初めて成立するのがLSI製造業であるといえる。

レヴィーとアンダーソンがなぜ成功したのか?この理由を筆者なりに述べる。成功するためにはレヴィーが技術者として優れていたことは言うまでもないが、アンダーソンの貢献も大きい。シリコンバレー企業が失敗するのは複数の天才エンジニアがトップとして新会社に入る場合である。各天才が個別のアイデアの細かなポイントで論争し決裂するという失敗だ。幸いなことにKLAには、創立時に天才エンジニアが一人しかいなかった。だからレヴィーは思う存分、腕が振えた。一方、アンダーソンは、技術とオペレーション以外の全てについて貢献した。スタート時のベンチャーにとってキャッシュフローの確保は最も大事な仕事になる。金がなくなったら会社は解散になる。経理のプロのアンダーソンは、レヴィーのオペレーションに金がなくなると必ず資金を工面して調達した。アンダーソンはレヴィーを信頼していたし、レヴィーはアンダーソンの調達する金が絶対に必要だった。だからKLAは紛争による決裂からは無縁だった。

レヴィーは検査プロセスに迷わずディジタル技術を用いた。これが成功理由の二つ目だ。アナログを使った競合企業を抜くことができた。そして、ダイ・ツー・データベース手法を部下と共に進めた。ダイはレチクルの実物パターンを意味し、データベースはレチクル設計者がコンピュータに入力するデータのことである。コンピュータの中でダイとデータベースを1対1で比較する。この手法でデータと実物の「違い」が浮き出る。この違いをレチクルの欠陥と考えた。

1986年、KLAが世に問うたウェーハ検査装置はベストセラーになった。日本の半導体会社の全盛期だった。ウェーハ検査装置は日本でもよく売れた。日本の会社の歩留まりは世界一を競った。KLAがテンコール社と合併する前の頃だった。

レン・ボザックとサンディ・ラーナーはシスコシステムズを1984年にシリコンバレーで設立した。才媛のラーナーに職場のスタンフォード大で会ったボザックは、間もなくラーナーと婚約した。当時職場にあったコンピュータは今と異なり互換性に欠けネットで繋がってはいなかった。それらを繋いだのがレンの斬新なソフトウェアで有線通信機を制御して大学内の離れた場所にいたラーナーとコンピュータ通信ができるようにした。こうして二人はマイ・ルーターを作った。ルーターとはコンピュータ通信に於いて信号トラッフィックを複数拠点間で結ぶ役割を果たす通信システムだ。最初のルーターが愛の言葉を伝えただろうことは想像に難くない。この間のエピソードは野口悠紀夫著「ゴールドラッシュの超ビジネスモデル」でも述べられている。

めでたく二人は結婚しシリコンバレーの自宅にオフィスを構えシスコシステムズと名付けた。シスコはサンフランシスコのことでロゴはゴールデンゲートブリッジから採った。時は二人に味方しインターネットの進展が加速して来たためにそのプロトコルの必要性が増した。最初からルーターはよく売れてシスコのその後の発展につながった。
  
次に新しいソフトウェアの提供方法を考えて事業化し成功したアントレプレナーを紹介しよう。マーク・ベニオフはセールスフォ—ス社を1999年、シリコンバレーに創立した。その事業はSaaS (サースと読む) = Software as a Serviceという新しいビジネスモデルだ。

SaaSユーザーはソフトウェアを買う必要はない。ただ、ブラウザを使いネットに入って契約しているソフトを使う。大変便利だ。このために筆者は近い将来パッケージ・ソフトは消えるか衰退するだろう、と思っている。SaaSベンダーはワードやエクセルといったパッケージでソフトを提供しない。月額料金を払う法人や個人ユーザーはブラウザを使って契約しているネットにサインインして入ればワープロや表計算ソフトの環境に到達できる。やりかけの過去の自分の仕事もネットに蓄えてもらえるので途中の仕事を直に続けることができる。販売チャネルを通してパッケージ・ソフトを売り切るのではなく、サービスの利用料として顧客に課金する。SaaSではアプリケーション本体とユーザーの設定情報を分けて管理しているため、一つのアプリケーションを、あたかもユーザー個々が専用で使うアプリケーションのようにカスタマイズできる。セールスフォ—ス社は、最初にCRMをSaaSで実用化した。

CRMとはCustomer Relationship Managementの略語で、ユーザー会社は全顧客との取引に関わる全ての情報を作成したりレビューしたりすることができ、生産性が上るツールだ。そのお客様を最後に訪問したのはいつだったか?過去の購入歴はどうだったか?今月の売上と利益実績は第3四半期の平均と較べて何%高いか?等々がクリックだけでわかるため、顧客の気持ちになったサービスを提供できる。

ベニオフは米国のデータベースソフトウェア会社であるオラクルでバイスプレジデントまで昇進していたがSaaSの世の中が来ることを直観した。中小の顧客がサーバーを持つ必要はない、と信じた。サーバーは管理が厄介であり多数の場合は相当なスペースを占拠し発熱するので空調にも金と電力を食うためだ。パッケージ型のソフトもインストールの手間やバージョンアップ等の管理が必要だ。ベニオフはSaaSを展開すれば、必ず売れると信じてセールスフォース社を起業した。

あるアントレプレナーの重要性はその人材が生まれなかったらどうだったかを考えるとよくわかるものだ。1879年電球を発明したエジソンはアントレプレナーでもあった。GEがスタートし電球を量産した。エジソンがいなかったら、人々は永くロウソクで暗い夜を過ごしたはずだ。

エイデム 代表取締役 大和田 敦之

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