アントレプレナーが進めるイノベーション(上)
私はアントレプレナーと言う言葉が好きだ。日本では起業家と訳すらしい。基本的には発明があってそれを事業化することが出来る人だ。即ち「無から有」を産む。もちろん、ホンモノの起業家は成功して従業員を雇い売り上げを拡大し利益を上げ納税し、かつ会社は繁栄し長続きすることが必要だ。
ホンモノの起業家がわが日本でももっと多く輩出すれば、経済が発展し、当然だが日本の繁栄の一助になると信じている。
意外にも日本には優れたアントレプレナーが多数存在したし、現在でも起業家として成功している人達がいる。本稿では人名がたくさん出て来るが敬称を略すことにした。加藤与五郎、齋藤憲三、八木秀次、松下幸之助、井深大、盛田昭夫、本田宗一郎。服部一郎や山崎舜平も貴重だ。最近ではソフトバンクの孫正義と半導体LSI設計会社ザインの飯塚哲哉、そして伊藤正裕を加える。重要な発明をした中村修二や舛岡富士雄も良く知られているが、今の所アントレプレナーではない。理由は、二人が発明家であるが発明を事業に繋げる活動をしていないからだ。この二人は優れた人材だが、報道によれば会社とうまく折り合わなかった。ただ、技術とノウハウを会社に伝えたゆえに日亜も東芝も発明を事業化して繁栄している。
他にもアントレプレナーは大勢が存在するはずだが、筆者の不明を恥じなければならない。
紙面に限りがあって全てを書けないが先ず採りあげるのは、フェライト(ferrite)の発明者の加藤与五郎と弟子の武井武。加藤は東京高等工業学校、今の東工大、に在職中に約300件の特許を取得している。フェライトは、酸化鉄を主成分とするセラミックスで一般に強磁性を示す。磁性材料としてテレビや録音録画テープに広く用いられている。昭和10年齋藤憲三がフェライトの発明者である東京工業大学教授加藤与五郎、武井武と出会い、フェライトの工業化を決めた。東京電気化学工業株式会社を設立し会社は発展してTDKになった。
服部一郎は理科系ではなかったが米国のMBA卒でありビジネスマンとして傑出していた。シリコンバレーの水晶発振器技術に投資し第二精工舎の技術陣に学ばせた。実用化の目途がつき1975年に日本プレシジョンサーキッツ(NPC)と言う会社を興した。NPCは、日本初のカスタムCMOSLSIの設計製造販売会社になった。水晶振動子とCMOSのPLL(Phase Locked Loop)回路を開発し、液晶表示の水晶時計を事業化した。その上、米国では市民バンド無線の普及に貢献した。
山崎舜平は1980年に(株)半導体エネルギー研究所を興した。半エネ研はR&D専業で半導体と周辺の技術研究を実施し特許取得を成果とするユニークなビジネスモデルだ。筆者は他にこのような例を知らない。例を挙げれば世界で知られる米企業から特許使用料の入金があり、会社はそのお金で回り、安定して黒字を達成している。このモデルにて、会社が特許料を他社に支払うことはない。山崎は2004年、特許取得件数世界一としてギネスブックに認定された。その発明件数は3,245件と言う。
飯塚哲哉は1992年株式会社ザイン・エレクトロニクスの前身、ザイン・マイクロシステム研究所を設立した。東芝時代に海外のベンチャー企業と協業してLSIの設計開発を成功させ、ベンチャー側に多額の金銭的報酬が入ったが、自身にはほとんど金が入らなかった悔しさをバネに独立したとされる。日本初のファブレス企業で、ザインは高精細フラットテレビ表示機能、ノートPC、LCDプロジェクタ向けのキーデバイス等々専用LSIを設計する会社だ。
1983年生まれの伊藤正裕は2001年に株式会社ヤッパを登記した。ヤッパは3Dのリアルタイムレンダリングに関する技術研究・開発を行い成果のソフトウェアを内外一流の顧客に販売している。レンダリングとは、数値データとして与えられた物体や図形に関する情報を数値計算によって画像化することである。ヤッパの技術を使えば、画像と回転、ページをめくるように表示するといった米アップル社のiPhoneのような操作性を短期間で実装できると、日経コミュニケーションでは紹介されている(2008年8月15日号、p.29)。
一方、日本のイノベーションは上記と異なり、既存の会社で行なわれることがある。昭和45年頃に始まった家庭用VTR開発戦争に勝利した日本ビクター社が演じたイノベーションは大変ユニークなものだったことがNHKの取材で判明している。幻冬社発行の書籍「プロジェクトX」はその間の事情を説明している。副題は「窓際族が世界規格を作った・VHS執念の逆転劇」である。当時の事業部長高野鎮雄は本社が認めていない家庭用VHS開発プロジェクトをヤミで立ち上げた。発覚すれば処罰され首を切られる恐れすらあった。
日本にはヤミ研究が多いが、これほどの大規模なヤミ研究開発は例がないと思う。そして高野は成功した。昭和50年、一方の雄ソニーの盛田昭夫社長がベータと称する家庭用VTR開発の成功を喜び、「これでビデオの時代が到来する」と、おおやけに語った。ただ、その時点でVHSと呼ばれた高野の家庭用VTR試作品はヤミの成果としてデモ出来る状態にあった。この出来栄えを評価するのに最も適当な人物がいた。松下電産の社長を退き相談役にあった松下幸之助だ。高野は賭けをした。秘密で招いた松下にデモ機を示し絶賛を得たのだ。直後に本社にヤミの開発を謝罪した。本社も認めざるを得ない。処罰は軽くてすんだはずだ。
だが日本の大部分のヤミ研究はこのような大規模なものではない。活動はグレーな状況で行なわれ残業代を請求しない等、暇を見て土日や夜間に実施したりする。製造現場に於けるQC提案制度に応募するための活動などである。規模が小さいので中々イノベーションに発展するようなケースは稀だ。ただ、日本の製造業ではこのような小さな貢献がチリも積もって「ものづくり」を支える。
次回は、同じタイトル(下)で米国における「アントレプレナーが進めるイノベーション」を述べて見たい。