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ジャック・キルビーの想い出

6月20日は、集積回路の発明者であるジャック・キルビーの命日である。没後8年、供養の意味を込めて彼の想い出を書いてみたい。テキサス・インスツルメンツ社(TI)における大先輩だったキルビー氏は、集積回路を発明した功績で2000年にノーベル物理学賞を授与されている。米国特許番号は3,138,743。その主たる図面を図1に示す。

図1 キルビー特許

図1 キルビー特許


よく知られていることだが、集積回路の発明者は米国にもう一人存在した。インテルの社長を務めたロバート・ノイス氏だ。キルビー氏の集積回路特許は1959年2月、そしてノイス氏の発明は同年の7月だった。当時はお互いに相手を知らなかったようだが、出願日はこわいほど近かった。ノイス氏は1990年に他界したため、2000年のノーベル物理学賞のテーマに半導体集積回路が選ばれた時点では候補者に上らなかった。

TIは1960年代に日本に製造工場を単独でスタートしようとして、このキルビー特許を掲げて当時の通商産業省と交渉をした。当時は外国資本100%の法人は認められなかったため、ソニーが間に入りソニーとの合弁会社としてスタートした。結果、最初の日本テキサスインスツルメンツはソニーの株式51%、TI49%の合弁企業になった。その年は1968年、その3年後に合弁は解消されて、日本テキサスインスツルメンツは100%米TIの子会社になって今日に至る。筆者が米TIに転職したのはこの頃で1969年だった。半導体先進企業で技術とマネージメントを学びたくて、思い切って飛び込んだ。

TIはダラスを本拠地としていた。最初の職場になったMOS Technology Development Centerは同じテキサス州のヒューストン郊外に新設されたばかりの部署だった。電卓チップ、DRAM、シフトレジスタなどをバイポーラTTL に代わりMOSで設計するため、副社長G. ペニステン氏のリーダーシップのもと新組織の社員たちは多いにはりきっていた。ペニステン氏は後にAMI(American Microsystems Inc.)の社長になった人材だ。上記のデバイスを設計かつ開発する要員をペニステンは意識して各国から集めた。彼らの国籍は米国、日本、フランス、英国、ドイツ、韓国、香港、台湾、中東のレバノン、インドと多彩に揃っていた。コミュニケーションはブロークンが混ざった英語にならざるをえない。

ジャックを最初に紹介された時のことは、44年も前のことなのでよく覚えていない。ただ、入社して半年後はお互いに言葉を交わす間柄になっていた。ヒューストン郊外のMOS Technology Development Centerにキルビー氏は時々だが、寄ってくれた。彼のオフィスはダラスの研究所だったのでヒューストン郊外に足を延ばすのは容易ではないのだが、会議があると出席するためにときどき姿を現した。彼は、遠くにいても目立つのですぐにわかった。何しろ背が高く199 cmもある。筆者との差が26 cmで仰ぎ見るような長身だ。アメリカ人の中でも目立った。

性格は極めて温厚で、口数は少なく、むしろおとなしいタイプの日本人に近い。集積回路を発明し世界初の基本特許を取得し、その上、後にノーベル賞を受賞するような偉大な発明家だが、おごらない謙虚さを持ち併せていた。だから英語で話していても日本人同士の友達のように接してくれた。筆者と話す内容は主に雑談だった。ただ、ここが重要なのだが、半導体とその応用技術に関しては相当に深い考えと意見を持っていて、たずねれば何でも語り教えてくれた。技術以外の話の時は雑談が多く、彼の方から議論を吹っかけてくることはなかったように思う。

当時ヒューストン郊外のその職場は一階の屋内にあり、そこだけが煉瓦敷きのスペースがありアクセントになっていた。6カ所くらい、1メートル四方ほど土を露出させるデザインが施され、高さ5メートル程度の樹木を植えていた。天井は十分に高く木の緑が映えて美しかった。落葉はあったが、専門の出入りの業者が始末した。そこに自動販売機が数ヵ所あり、紙コップに入ったコーヒーや袋入りのナッツが買えた。キルビー氏は小銭の管理をあまりしていなくていつも苦労していた。結果、多くの場合に小銭は一緒にいた筆者が面倒を見ることになったが、懐かしく想い出す。長身の彼がポケットの中を苦労して小銭を探すのに筆者は同情した。

その後、日本TIが鳩ケ谷市にファブを稼働させる機会に、筆者は日本に引っ越した。TIは当時、年4回QFR(Quarterly Financial Review)と称する会議を開いていた。四半期ごとの計画と実績を担当者が報告し合う。筆者も末席にいた。東京、ダラスなどTIの拠点が存在する場所でQFRは開かれ、普段は会えないトップと現場の従業員を交流させる配慮がある。このため、社長のマーク・シェファード氏(参考資料1)をはじめ、モリス・チャン氏も東京に来た。ジャックも来た時があった。モリスは今やTSMCの総帥だ。

QFRでは、司会(MC)をマークが務めた。事業する側のトップはモリスだが、その下に事業部門の責任者がいてプロジェクタのスクリーン上で透明フォイルを使ってプレゼンする。パワーポイントがない時代でIBMタイプライターを使って大型フォントでタイプして透明フォイル上に転写してスクリーンに投影する。良かったのはQ&Aに十分な時間を採ることだった。事業部門のマネージャーがプレゼンして誰かが技術的な質問する。マネージャーが答えに窮して立往生することが何度かあった。皆が顔を見合わせる。突然モリスが指名して叫ぶ、「ジャック!」。キルビー氏はうなずき、おだやかに落ち着いて質問の答えを解説する。通常は長々と喋らない、でも皆が納得する。マークが言う、「Thank you, Jack」。キルビー氏は微笑む。そして、マークが宣言する、「Next… 」。次のプレゼンの担当者が演壇に立つ。会議は活発なディスカッションの元で進んだ。

参考資料
1. 巨星堕つ、マーク・シェファードJr.氏のご冥福をお祈りします (2009/02/20)

エイデム 代表取締役 大和田 敦之

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