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東芝に期待する

昔、新入社員として東芝に入社した。半導体の技術部門の開発課に配属され、希望が適いうれしかった。この会社には大変にお世話になった。それ故に東芝に対する思い入れは深いつもりだ。当時から20世紀後半にかけてわが国の半導体は世界をリードするまでになった。

新入社員だった1960年代は東芝、NEC、日立製作所、三菱電機、富士通、松下電器産業など各社が半導体技術開発と売り上げを伸ばすべく競っていた。今の状態とは異なり、大学生が就職にエネルギーを費やすことはずっと少なく幸せな時代ではあった。会社が発展して大きくなるためにはどうしたらよいか?われわれ当時の大学生が考えていたモデルは、優秀な学生をなるべく多く採用し、社内でオンザジョブなどにより教育しつつ、各々を最前線において仕事してもらい貢献させることであり、実際にそのような手法が採られたと思う。学生から見てマツダ研究所を擁し、1960年には新しく中央研究所を新築しスタートさせた当時の東芝は、大変に輝いて見えた。半導体をはじめエレクトロニクス事業に驀進する姿に憧れていた。毎年4月には、筆者などは末席であったと思うが文字通り、全国から俊秀が集まった。

当時の先進企業であった米RCA並びにGE社とは半導体技術協力契約が締結されていたので英文の技術資料なども読むことができた。実習制度もあったので、出張命令を請けて、米国の東海岸地区にあった両社に数週間ほど派遣され製造現場の見学し、技術陣と議論することができた。新聞によると昨今は若者が外国行きを忌み嫌い留学生も減少しているというが、これらの新聞報道は大変に信じがたい話である。

当時の日本の平均的な貧しい家庭では留学は夢のまた夢であり普通の家庭の若者が留学するには厳しかった奨学金制度の試験を受けて合格するか、会社の留学制度を使うしかなかった。もちろん、会社の制度だって競争が激しかった。両親が金持ちの家庭なら別だが、豊かな家庭の子弟は大変に少なかった。

東芝がRCA並びにGE社と技術協力契約を結んだのは先輩社員の知恵だったと思うが、実に正解だったと信ずる。なぜならRCAは弱電(編集室注:エレクトロニクスをこう呼んだ)用の半導体製品を多数販売していたし、一方GE社はサイリスタやSCRなどのパワー半導体に優れていたからだ。両社とも20世紀が終わる前に半導体生産から撤退している。おかげで東芝は今日でもディスクリート、パワー半導体そして超LSIとバランスの採れた製品群を生産している。一方、インテル社などは電力半導体の分野で製品を作っているわけではないのが現実の姿である。

東芝と日立は、80年代に共にDRAM事業で競争したが、東芝はDRAMビジネスから2001年に撤退した。DRAMはコモディティ化し事業として魅力が失せたため東芝のこの動きは正しかったようだ。だが日立は別の動きをして1999年にそのDRAMの部隊は三菱、NECの一部と共に合流してエルピーダメモリをスタートさせた。ただ、華やかな成功体験を捨ててDRAM事業をいち早く(1980年代半ば)辞めたのはあのインテルだった。

残ったNECの半導体部門は、2002年、NECエレクトロ二クスの名のもとに子会社として半導体専業に転化した。そして2003年、残った日立の部隊は三菱とシステム半導体専業のルネサステクノロジ社を作った。NECエレクトロ二クスは、ルネサスと昨年に合体しルネサスエレクトロニクスがスタートした。ガートナー社の半導体売上げランキングの最新データは2009年で1位東芝、2位ルネサステクノロジ、3位ソニー、そして4位NECエレである。2010年は前期のみデータが特定されていてIC Insights社が発表しているが、これによれば、やはり東芝がトップになっていて順序は東芝1位、ルネサスエレ2位、そしてエルピーダが3位に上がってきている。

東芝の業績において筆者が最もうれしく感じたのは当ブログでも書いたフラッシュメモリーの発明と実用化である。フラッシュメモリーは半導体業界に対する大きな貢献になったと思う。発明者の舛岡富士雄氏の著作「躍進するフラッシュメモリー」から引用すると次のように述べている。「フラッシュメモリーはメモリー密度が高く、しかも軽くその上に低価格、低消費電力かつ高信頼である」。フラッシュメモリーがなかったなら、今日の携帯電話などはありえなかったろう。スマートフォンをはじめとしタブレット端末、デジタルカメラ、電子書籍リーダーなどのモバイル機器の進展と相まってフラッシュメモリーは大躍進を遂げている。東芝の四日市工場は、フラッシュメモリーの一大製造工場だが、今年も正月休み返上で操業することになった、と報道された。フラッシュの需要は絶大なのだ。さもなければ昨年暮の停電などで少々製造が止まったくらいで正月に工場を動かすことなどないのだ。

東芝のビジネスモデルは「電球から原子力まで」の総合電機メーカーとして進むことである。ただし、時代の変遷で昨年3月17日に家庭向けの白熱電球の製造中止を決め、この旨を告げる新聞広告を出した。120年にわたる照明ランプの歴史の幕を降ろした。日本新聞協会はこの広告に新聞協会賞を授与した。11人の作業服の従業員が製造ラインの自動機に感謝を表しお辞儀している後ろ姿を写した新聞広告は感動的なポスターになった(讀売朝刊、本年1月9日)。もちろん、東芝の照明事業においては半導体LED照明が電球を引継いでいる。

その原子力における開発力は世界でも群を抜く。一例を挙げれば小型高速炉「4S」である。「4S」は、エネルギーに困窮する世界の僻地などでの利用を想定し、核不拡散性を高くするべく燃料交換が不要な設計を実現した。結果、インストール時に装荷した核燃料は交換なしで30年間運転を持続できる。30年後には人的操作なしで炉は自然に停止し除熱を実行するなど安全性が高いユニークな小型炉なのだ。このため中国の内陸など電力網が行きわたらない場所でも電力を享受できることを目指している。中国のみならず世界の僻地で使える。東芝は、19世紀に始まり20、21世紀へと繁栄する日本を代表する製造業だ。いやが上にも東芝の発展を期待せざるを得ない。  

エイデム 代表取締役 大和田 敦之

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