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Where there is a will, there is a way (意思あるところに道はある)

新しい年が明けたが、我が半導体産業において近い将来の不透明感は依然として高い。事業環境は決して良いとは言えない。人口減少モードの中、為替は円高に振れ、日本人の収入は増加するどころか近年は減少気味であり、その上デフレになっている。国と地方の長期債務は讀賣新聞12月29日版によれば、2010年度末で862兆円と見込まれて膨大している。

現政権は年間3%の成長モデルを発表し閣議決定をした。2020年までにGDPを年率3%成長させ650兆円にして新たな雇用を470万人創出するという内容だ。だが3%の成長を支える施策の裏付は見えない。子供手当が支給されるようになるが、学校に払う諸経費、教育費などに多く使われても半導体応用製品には波及し難いのではないか?節約ムードの中にあってPC等のニーズは中古品に走るケースも多く見られる。

このような経済情勢下で、いかに半導体といえども成長するのはやさしくないと言わざるを得ない。けれども我が半導体産業は他国の同業との競争に勝たなくてはならないし、シェアを増やして適切な成長を果たすべきであると考えている。では、どうするか?

日本を見ている海外の賢人の考え方も参考になる。彼らは直接責任がない故に我が製造業について相当大胆な発想が出てくるのではなかろうか?日本経済新聞は12月29日の朝刊でJPモルガン・チェースCEOであるJ・ダイモン氏の談話を掲載している。同氏によれば要は「競争こそ成長の源泉」だというのだ。

「トヨタやコマツなど裏付けが豊かな世界のトップ企業があふれているのに成長が緩慢だ」
「原因はどこかに隠れたほころびがあるのだろう」。ダイモン氏は以下6点をアドバイスする。 

・人口減に対し税制などの積極的な政策で出生率を上げるべきだ
・米国のように移民で人口を増やす政策もあるだろう、集めるのは世界最高の人材だ
・固有の良い価値観を守りつつ成長軌道に乗せる策はあるはずだ
・妙な優しさをすて退出すべき負けている企業は退出させるべし
・英語教育を大きく進めれば外国資本はもっとやって来る
・グローバル化を進め、その過程で中国と競争になるが日本が助ける局面も出てくる

もう一人の賢人でフランスを代表する論客J. アタリ氏は讀賣新聞1月3日版で、未来は暗くないとし、次のように述べた。

「暗い未来を避ける唯一の道は何が脅威かを知ることだ」

「日本の課題は第一に少子高齢化を乗切る人口政策だ。第二は明確な技術革新政策だ」、等と述べている。日本は多額の個人金融資産を保有し優れた大学も多くあるので、そのようなリソースを活用し課題を乗り越えることができるはずだ、とアタリ氏は提案している。

当然ながら縮小する国内市場の外に出て世界市場で果敢に競争することは必須だと思う。前例をたどれば過去に繁栄した我が半導体企業群が世界中でDRAMを売りまくった時代(80年代)があった。その頃、日本の半導体シェアは世界一だった。

さらにそれよりずっと前だが池田内閣が所得倍増論を掲げた。筆者はその頃はまだ駆け出しの新入社員で「所得倍増って本当か?」と眉に唾をつける思いだったが何とそれが実現した。毎日新聞社の「日本史便覧」、朝日新聞社刊「データ読本戦後50年」などによると16兆6000億円だった昭和35年(1960年)のGNPは39年の東京オリンピック開催を経て大阪万博を開いた昭和45年に75兆1500億円と10年で4.5倍になり国民所得は35年の13兆5000億円が65兆9500億円と、4.8倍になって所得倍増は優に実現した。

この勢いで助走をした日本半導体は遂にあのインテルをしてDRAMから撤退せしめた。この判断は筆者の独断ではない。その新聞記事がサンノゼマーキュリーニューズに載ったその日に、有名なKLA Instruments社の会長(当時)がシリコンバレーで働いていた筆者の所にやって来て「日本はやり過ぎだ」と、不満を述べたのを良く覚えている。つまり、これほどまでに日本には勢いがあった。この頃までは日本の人口は増えていたし、我が半導体企業も海外展開をはじめ種々の積極策を実施していた。シリコンバレーの雰囲気は「是非、日本に進出し日本から学べ」一辺倒であった。これら快挙は猛烈な円高にもかかわらず進んだ。1972年までドル当たり360円だった為替は1989年には160円程度になった。17年で2.25倍の円高を我が国は乗り越えた。そして、我々エンジニァは意気軒昂としていた。

DRAM は 1970 年に米インテル社が発明したが、それは3トランジスタセルであった。1トランジスタセルは、テキサスインスツルメンツの同僚、喜多川儀久氏が発明し設計した。TIは、1トランジスタセルの4K メモリーを実用化し販売した。その後、日本企業はその1トランジスタセルにて16K ビットDRAMなどの量産に突入する。

日本の半導体産業は、「超LSI 技術研究組合共同研究所(垂井康夫所長、1976 年〜1980 年)」の設立を契機として、ステッパの実用化などで躍進を遂げ米国のステッパを駆逐した。そして我が半導体は1988 年には全世界での半導体シェアの52%を占めるまでに至った。

「やり過ぎた」日本は日米半導体摩擦を経験したが、その摩擦もいつの間にか終息した。終息の理由は日本のシェアが落ちたからだ。日本半導体は1990年頃からブームになっていたPC事業においてMPUとWindows OSでは遂にインサイダになれず置き去りにされた。圧倒的に強かったDRAMもこうしてその間に発生した半導体不況の波に飲まれ、そうこうしている間に他のアジア企業や復活したインテルに首席を譲ってしまった。

トップランナーだった日本がこうなったのはなぜなのか?王座にあぐらをかいて油断したとしか言いようがない。80年代に日本に抜かれた米国は臥薪嘗胆の末、国家戦略を確立してある程度の回復を果たした。一時凋落したインテルは今でも半導体でトップを走る。

アタリ氏が述べるように日本は楽観的であって良い。そして、何が脅威かを再確認し過去の失敗から学ぶべきだろう。今の役所主導の複数のコンソーシァムは成功しているとは言いがたい。ただし、IMEC等の海外のコンソシアムは成功例と考えている。年頭に当たりWhere there is a will, there is a way(意思あるところに道はある)の精神を信奉し知恵を絞り、相当の努力をすれば日本半導体が80年代の再現を祝う道は遠からず開けるはずだと考えている。

エイデム 代表取締役 大和田 敦之

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