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今もう一度、天動説から地動説への回帰

最近、電機産業の凋落が伝えられている。かつて世界に君臨した日本の電機メーカーはなぜ没落したのだろうか。どうすれば回復できるのか、考察してみよう。(注1)

戦後すぐの1947年、米国ベル研究所でトランジスタが発明された。続いてIC、LSIと次々と米国で発明されている。日本も必死で米国の後を追いかけ、1976年にはオールジャパンで超LSI技術研究組合(垂井康夫所長)を結成し、米国のキャッチアップを図った。その甲斐あって、1980年代後半にはDRAMを中心に半導体デバイスの世界シェアで日本が米国を抜いてトップに立った。

その後、日米半導体貿易協定が結ばれ、米国では超LSI技術研究組合に範をとったコンソーシアム「SEMATECH」が設立されて官民挙げて日本追撃を始めた。

その効果の表れか、はたまた日本が勝手に自滅したのかは意見のわかれるところであるが、日本の半導体シェアは1988年の51%をピークに徐々に下がり始め、2011年には19%にまで落ちてアジア地域(日本を除く)の後塵を拝するまでになった。

このような日本半導体産業の盛衰が何に起因しているのか既に多くの意見が出されており、議論もなされているが、まだ決定的な説明はできていないような気がする。

当時、日本は大型コンピュータ向けの高品質DRAMを製造して世界シェアの半分以上を占めた。一方、大型コンピュータに対して急速にパーソナルコンピュータ(以下PC)がその出荷台数を増やし始めていた。この個人向けのPCでは品質はそれほど必要としないが低価格のDRAMが必要とされた。日本より後発の韓国メーカーや米マイクロンテクノロジー社はこのPC向けのDRAM製造に的を絞り、結果として大きな成功を収めた。

64MビットDRAMの製造に使用されたマスク枚数を比較した資料(注2)によれば、国内3社のDRAMメーカーはそれぞれ26枚、28枚、29枚を使用していたのに対して、韓国の二社は20枚と22枚、台湾の一社は20枚、米国マイクロンテクノロジー社は15枚であった。半導体製造に使用するマスク枚数は少なければ少ないほど製造工程が短くなり、それに応じて製造コストも安くなる。ただし、マスク枚数が少なくなったことによる歩留まりと信頼性への影響は定かでない。

結局、日本のDRAMメーカーは大型コンピュータの時代から個人向けPCへの時代への変化を読めなかったのか、わかっていても対応できなかったのかのどちらかである。どちらにしても社会の変化に迅速に対応できなかった。

企業活動が社会を動かすのも事実であるが、社会の変化が起業を促し、さらに既存の企業に変化を促すこともまた事実である。いつの時代でも社会は変化している。当時の大型コンピュータから個人向けPCへの社会変化に日本の半導体企業が対応できなかった。

日本半導体業界の衰退した原因を「おごり」だとする意見がある。この意見にも一理あると思っている。個人であれ組織であれ「おごり」があると、自分以外の世界は自分を中心に回っていて、周りの者が全て馬鹿に見えるものらしい。こうなると当然のことながら周囲の意見にも耳を傾けないし、社会の変化に目もくれない。このような状況で時間だけが過ぎていくと、そのうち彼我の差が誰の目にも明らかになってくる。この時点で気が付いても遅すぎて最早どうしようもなくなっている。このように思える事例をこれまで多く見てきたし、現在も進行中である。

戦後のモノ不足の時代には供給不足のためにモノを作れば売れた。ところが今ではモノ余りの時代になって買いたいモノがなくなった。社会は急激に変化している。例えば、社会に占める年齢構成も少子高齢化が急速に進み、為替レートも円高が続き、世界のマーケットも大きく変化している。近隣諸国からは安いモノが大量に入ってきてデフレが進んでいる。一方で、国内企業は安い人件費を求めて海外進出を加速し、その結果として働く場が縮小すると同時に賃金も増えない状況にある。

我々の業界に近い例として携帯電話機を考えてみる。本格的なスマートフォンが登場したのは1999年で、カナダのRIM(Research In Motion)社の「Black Berry(ブラックベリー)」だとされている。その後に何社かがスマートフォンを発売し、米国の先進ビジネスマンが活用していたが、本格的に普及を始めたのは米国アップル社が「iPhone」を発売した2007年からである。その後、韓国サムスン社が「Galaxy(ギャラクシー)S」を2010年にNTTドコモから発売し、現在では2社によるトップ争いが世界中で繰り広げられている。

一方、一時は携帯電話機の勝ち組とされていたフィンランドのノキア(Nokia Co.)社であるが、2010年はじめの時点では携帯電話の台数シェアは34%、売上高シェアは27%であり両方とも世界ランキング1位であった。その後、ノキア社の売上高は急激に落ちて2012年第2四半期での売上高シェアは10%にまで下がった。台数シェアも徐々に23%まで落ちてきて、韓国サムスン社に抜かれたもののまだ世界ランキング2位の地位を維持している。つまり、低価格帯の携帯電話機を中心にビジネスを展開してこれまでは成功してきたが、スマートフォンの登場に対して明らかに対応が後手に回ったことを示している。

この例に見るように社会の変化をいかに読み、どう対応するかはたいへん難しいテーマではあるが、自分の職場が生きるか死ぬかの問題である。ノキア社の例で明らかなように、見て見ぬ振りをすると自分の首を絞めていることになる。

このような社会の変化を素直に見つめ直し、それに対応して自分の職場を変えていく努力をしなければならない。さらに5年先ともなれば、社会は当然のことながら現在とも違っている。もっと大きな社会変化が起きていると思わなければならない。その時、自分の職場はどうなっているのか。

今のままではダメだということは分かったが、ではどうすれば良いのか。これは各人の置かれた立場や状況が違くので当然のことながら一律的な回答はないが、自分の職場に「ゆらぎ」(注3)を入れる努力をするのは一つの解につながるかもしれない。

本当の話かどうかは定かではないが、「ゆらぎ」を導入する一つの試みとして社内で「異質を作り出す会議」を開催したところ、集まった全員が同質の人ばかりであったという話を読んだことがある。他人事として笑って済ませられることではない。日本の企業では同質の者ばかりを集めて居心地の良い職場を作り、異分子を排除する傾向があったが、ここにきてツケが回ってきた。

シャープ元副社長の佐々木正氏(注4)からの受け売りであるが、一つのわかりやすい例を挙げれば、自分の周り例えば部なり課を見回わしてみて、部長や課長と同じ血液型の人ばかりが集まっているようでは、新しい化学変化は起きない。同質の人がいくら集まっても異質な考え方は生まれてこない。

「週刊東洋経済」の2012年8月4日号に佐々木正氏のインタビュー記事『日の丸電機の処方箋、「共創」が未来を作る』が掲載されているで、その文章の一部を紹介して締めくくりとしたい。

『厳しいといわれる日本の電機業界ですが、天動説じゃなしに、地動説で考えなあかん。電機業界とは、社会が生んだものです。社会が変わってきたら、業界は変わるかも、なくなるかもわからんね。(一部省略)
そんなとき、自分の業界だけは変わらないという自分中心の考え方が天動説です。「電機業界のままでどうにかしたい」という発想になる。これはダメです。地動説に基づけば、社会の変化に応じて商売も変えていくことが必要です。もっと広く考えないといけない。(一部省略)
電機、自動車、建築・・・・・・・さらに新しい学問がミックスされた業界になるかもしれん。そういうときに大事なのが、共創(注5〜注7)という考え方でしょう。独創的な人間が協力し合えば、独創性は何倍にも膨らみます。共創は独創より、もっと高次元のものなのです。』

光和技術研究所 代表取締役社長 禿 節史(かむろ せつふみ)




注1 この原稿は清水隆著『コペルニクスの鏡』(平凡社)に触発されて書いた。清水氏は東日本大震災後の日本とこれからの地球文明のことを考え、児童文学書という形をとって「<いのち>の継続原理」を提唱し、従来の「拡大の文明」から「継続の文明」へとコペルニクス的な転回をするこれからの時代にとってたいへん重要だという。
注2 湯之上隆『コストと技術は別物ではない “儲ける技術”で悪循環を断て』、電子ジャーナル2006年9月号、pp.61-65、2006.
注3 「ゆらぎ」に関する一つの参考資料:武田計測先端知財団編『「ゆらぎ」の力――はやぶさの帰還、宇宙の始まり、高次な生命機能――』化学同人、2011.
注4 佐々木正:元シャープ副社長・工学博士。大正4年(1915年)島根県生まれ。昭和13年(1938年)京都帝国大学工学部卒業、逓信省電気試験所、川西機械製作所(後神戸工業、現富士通)を経て、昭和39年(1964年)早川電気工業(現シャープ)に転籍。副社長・顧問を歴任、電卓や液晶ディスプレイなど多くの研究技術開発を指導しシャープを日本有数の電子機器メーカーに育てあげた。昭和46年(1971年)機械振興協会賞、アポロ功績賞。昭和48年(1973年)藍綬褒章、昭和55年(1980年)通商産業大臣賞、昭和60年(1985年)勲三等旭日中綬章、平成7年 (1995年)経営者特別賞。平成15年(2003年)米IEEEから日本人として5人目となる名誉会員(Honorary Membership)の称号を授与された。ソフトバンク(株)相談役、(株)国際基盤材料研究所代表取締役、郵政省電波技術審議会委員、新エネルギー財団・太陽光エネルギー委員会委員長、(財)国際メディア研究財団理事長、(財)未踏科学技術協会理事など多くの要職を歴任。平成23年(2011年)8月NPO法人「新共創産業技術支援機構」を設立し理事長に就任。
注5 共創:佐々木正氏が昭和63年(1988年)頃から積極的に提唱し始めた考え方で、異なった価値観を持つ者がお互いの信頼関係に基づき、同じ「場(ば)」において情報交換等を通して共感・共鳴し合って同じ目標に向かい新しい価値を創造していくという考え方。平成5年(1993年)からは「共創」の精神に賛同する企業を集めて自ら「共創クラブ」という会を主宰して直接の指導も行っていた。
注6 「独創から共創へ」(2008年6月18日)セミコンポータル。 
注7 「スティーブ・ジョブズ氏がアドバイスを求めた日本人」(2012年5月17日)セミコンポータル。

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