セミコンポータル
半導体・FPD・液晶・製造装置・材料・設計のポータルサイト

がんばれ、日本の半導体

|

編集長の就任の挨拶で、表現が過激だというご意見をいただいた。日本の半導体メーカーが1986年に1位、2位、3位を占めていたが、今は3位にも入れない状況を「見る影もない」と表現したことが言い過ぎではないか、というご意見だった。

電話でお話を詳しく伺うと、今でも日本の半導体メーカーは生き残りをかけて必死で闘っている、エルピーダ、東芝、ルネサスなどそれぞれのDRAM、フラッシュ、マイコンなどで好位置を占めている、ということだった。もっともである。

米市場調査会社のiSuppliが発表した2006年の年間売り上げランキングによると、東芝が4位で健闘しており、ルネサスも6位をキープしている。この点では、世界レベルでみてトップ企業の仲間であることには違いない。エルピーダも四半期ベースで3期連続、営業利益率10%以上というりっぱな成績で成長してきた。半導体製造装置産業でも売り上げトップテンは日本企業が5社も占めている。半導体シリコンウェーハ材料となると世界の8割も日本企業が占めている。半導体産業全体では今でも日本企業の優位は揺るがない。

とはいえ、半導体デバイスメーカーがかつてトップテンのうちの5社も占めていたのに今は2社しか残っていない、ことも事実である。半導体業界の方々とお話しすると、常にこのことが話題になる。それもどうすればかつてのような金、銀、銅メダルをとれるだろうか、という議論である。この議論は、今の半導体デバイスメーカーがさらに成長するためにはどうすればよいか、というテーマのもとで交わされている。

半導体メーカーを決してけなしているわけではない。今の状況をさらに打破して金、銀、銅をいただくための戦略を議論している。気持は、常に日本企業にさらに上位へ行ってほしい、という願いである。現状で満足しないでほしい。だからこそ、多少きつい言葉で叱咤激励した。言葉がすぎると感じられる方がおられれば謝ります。

簡単に私の自己紹介させていただきたい。私は1970年代前半に理工系大学の応用物理学科を卒業し半導体メーカーに入社した。ローノイズJFETの開発やマイクロ波ダイオードの開発、信頼性技術などに従事した。4年過ぎてから日経マグロウヒル社の日経エレクトロニクス編集記者に転職した。編集記者を数年経験した後、日経マイクロデバイスや、英文誌Nikkei Electronics Asiaの創刊に加わり、その後編集作業に従事してきた。

2002年にリード・ビジネス・インフォメーションに移り、Semiconductor International日本版やDesign News Japan、Electronic Business Japanを創刊してきた。メディアを通して半導体産業、半導体技術、半導体製品を30年間見てきた。1986年に日本の半導体メーカーが金、銀、銅の地位を占めたとき取材現場にいた。

米国のIEDMやISSCCをほぼ毎年取材していた1980年代、米国の技術者、研究者が軍事技術離れを起こしていることをじかに見聞きし、1990年のベルリンの壁崩壊の前兆を感じてきた。冷戦終結後数年たってGaAs半導体やスーパーコンピュータのマーケット縮小を目の当たりにし、逆にシリコン半導体の今後の成長を確信した。軍事技術から民生へと転用してきた時代が確実に180度変わることを実感した。

メインフレームからダウンサイジング、PCからポストPCへの時代の変遷、これに伴うDRAMアプリケーションのシフト、コンピュータチップの独自開発からIntelチップなどへの転換、ソフトウエア危機から階層構造のソフトウエアへの転換、通信速度の向上と無線技術の再興、マイコンの浸透、さまざまなインターフェースの登場やパワーマネージメントなどによるアナログ技術の復権、など技術の変遷を追いかけてきた。

技術、ビジネス、製品を追いかけることで、日本の半導体メーカーがかつての地位を取り戻すためにどうすべきか、メーカーごとに企業戦略は違うはずだ。たとえば東芝ができてもNECエレクトロニクスができない、ことがある。その逆もある。自分のコアコンピタンスを自らが問いかけるという地道な作業と、世界の技術・ビジネス・製品動向の適確な把握こそ、新たな成長戦略につながるだろう。そのためには、その成長戦略を経営者一人で作ったり、コンサルティング会社に任せたりするのではなく、技術系・マーケティング系幹部10人くらいでブレーンストーミングすることから議論する。テーマは、5年〜10年後の自社の主力製品は何か、である。そして議論を次第に収束させていく。数ヶ月かけて議論を続ける。このプロセスを経れば独自の戦略は必ずできる。少なくとも復活を遂げた米国の有力企業、インテル、TI、IBMなどはみな、このプロセスを踏んで戦略を立ててきたのである。


津田建二

月別アーカイブ