いつまでも想定外という言葉で責任逃れをしないための解決の場を作ろう
東日本大震災をきっかけに想定外とは何かについて考えるようになった。10mを優に超える津波が福島第1原子力発電所を襲うとは想定外だった、と東京電力は言い、岩手県宮古市田老地区にあった『日本一の防潮堤』が脆くも崩された。自然の力に対して結果的に無力な堤防になってしまった。しかし、どちらも想定外で片づけてよいのだろうか。想定外という言葉は責任逃れのように聞こえる。
もちろん、想定できなかったと自分の能力不足を素直に認める言葉でもあることは確かだ。しかし、このことで本人の責任が免罪されても困る。だから責任逃れの言葉のように最近、思えてきた。大事なことは、2度とこのような災害を起こさないように対策を打つことである。
人間は全ての動物の中で最高の知能を持ち、最高の知恵を持つ。生き残る知恵を持っている。歴史上、さまざまな困難を乗り越えてきた。今回の地震を想定外で片づけるのではなく、どうやって災害に打ち勝つかを考え実践できるのが人間である。
ところが、今の日本は各分野の研究者、学者が『タコつぼ的』に活動しており、有機的に結びついていない。もし、東京電力の原子力発電所の建設に地震学者の知恵が入っていたら、また地震予知研究者の知恵が入っていたら、あるいは津波の研究者の知恵が入っていたら、これほどひどい惨事にならなかったかもしれない。もし、知恵が入っていたのに東京電力が無視したのなら、安全を無視したその責任は徹底的に追及されなければならない。
いずれにしても、さまざまな知恵を生かす場を制度的に形骸化しないように、設ける必要があるのではないだろうか。特に地震の多い日本では地震学者と建築アーキテクトや地震予知研究者、プラントエンジニアなどが話し合う場は今後、マストである。
地震学者だけの狭い研究領域ではこれまで通り、想定外で終わってしまうことになる。読者の中にも1989年のサンフランシスコ大地震が起きた時の地震学者の対応を記憶しておられる方が大勢いらっしゃると思うが、地震学者は「わが国では耐震性がしっかりしているからサンフランシスコ地震のように高速道路が寸断されるというひどいことにはならない」と言っていた。この舌の根が乾かない6年後に起きた阪神淡路大震災。この時から彼らからは想定外という逃げの言葉しか出なかった。国家の枠組みを作るべき政治家と行政は長い間、大震災対応を放置してきた。
地震学者を責めるつもりはない。政治家や行政を責めるつもりはない。人間一人の頭では知恵にも限界がある。いろいろな分野の研究者や、時には営業のプロなどさまざまな分野の専門家が考えれば新しい考えは生まれてくる。タコつぼ的な組織と行動パターンだから知恵が出てこないのである。想定外という責任逃れの言葉をいつまでも認めては、災害に弱い愚かな人間にとどまる。各分野の研究者や学者が自分の分野だけで収まらずに分野間をまたがり、単なるサロンで終わらないディスカッションと解決すべき課題を定め、一緒に考え議論することで初めてソリューションが見つかる。想定外ではないソリューションだ。
学者だけの会合ではサロンに走る傾向がある。サロンは無責任な言いたい放題の場にすぎず、解決に至らないことが多い。一つの目的に向かってソリューションを考え積み上げていく場が必要なのである。
各分野の方の知恵を生かすという視点で集まらなければならない。現役バリバリの学者、製造業界のことは何でもわかるモノづくりのベテラン、フレキシブルな知恵を出せる若いマーケティング担当者、主婦の視点から発言できる女性、製品やサービスを売ることの専門家である営業マンなど、さまざまな分野の人たちを集めることが重要だが、しかし相手の言うことに耳を傾けそれをヒントに生かすタイプの人が必要だろう。勇気を持って自分の発言を修正できるくらいの度量のある人たちが望ましい。こういったさまざまな知恵を集めることで新しい解決案が出てくると思う。