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一朝一夕にはできぬ労働力・人材育成の難しさ(前編)

前報(参考資料1)で2018年9月に公表された米国の「国家量子情報科学戦略全容」(参考資料2)(以下QIS戦略全容と略記する)を紹介した。それは入口から出口まで10年計画で投資をしてこの分野の産業振興を目指すという国家戦略で、作成者である米国諸官庁配属官僚のレベルの高さを実感させる文書であった。その後、2022年2月に、当該産業を担う労働力(Workforce)育成に絞った「量子情報科学技術労働力開発国家戦略計画」(参考資料3)(以下QIST労働力開発戦略と略記する)が発表されているので、引き続きご紹介したい。

生産技術や製造技術を人材不足の新天地や新企業に移管することの難しさを嫌というほど経験した筆者は、新しい産業分野を興すとき、米国ではいかにして技術力のある労働力人材を創出するのだろうと興味津々だったからである。

説明の都合上、本稿は3部建てとし、前編に筆者のQIST労働力開発戦略の全般に対する率直な印象をまとめ、引き続き中編ではQIST労働力開発戦略の結論に対する筆者の考察をまとめた。読者が前編と中編でQIST労働力開発戦略の概略が把握できるようにしたつもりである。その上でQIST労働力開発戦略の抄録を後編で紹介する。順序が違うではないかとの誹りもあろうが、QIST労働力開発戦略の抄録を先に持ってくると、あまりにも膨大なので、僭越ながら先に筆者の印象なり、考察を先に持ってきて、読者がこのQIST労働力開発戦略を読破しやすいようにしたいと考えたからである。もちろん筆者の考えを先入観として持つより、ご自分でQIST労働力開発戦略そのものを先に理解したいとお考えになる読者は、順番を変えて後編からお読み頂きたい。


量子情報分野でも工学が重要な時代に

ここに紹介するQIST労働力開発戦略には、「QIS戦略全容を発表した2018年以降学んだ教訓をもとに、現在までの量子情報分野の進展状況も反映させている」と記されている。またQIS戦略全容では、「量子情報科学で扱う量子力学は、量子もつれや量子重ね合わせ理論を扱う新しい分野なので、先ずはScience Firstで臨む」という戦略であった。しかしQIST労働力開発戦略では「既に量子工学という言葉も誕生している時代なので、もはや工学を無視できない」として、略記する場合もQuantum Information Science(QIS)にTechnologyを加えQISTと変更している。


QIST労働力開発戦略の全体構成と特徴

QIST労働力開発戦略では、Executive Summaryの後、Introduction で、労働力の必要条件と現状分析、および挑戦すべき課題の説明がなされており、それを受けて労働力開発のビジョンと、ビジョン達成のための4項目のアクション(Action)を掲げている。その後、それぞれのアクションごとに現状(Landscape)、政府への提言、そしてそのアクションの結果、学界と産業界やQISTエコシステムにもたらされる新しい機会(Opportunities)、恩恵、好ましい状況をまとめた構成になっている。

ここでOpportunityの適訳を探すのに苦労したが、活動の結果得られる機会、あるいは辞典で言う、もたらされる有益な(advantageous)状況(circumstances)の意味と解釈されればよいと思う。適切な日本語が見つからなかったので、以下ではOpportunitiesのまま使わせて頂く。

なお、原典ではOpportunitiesの記述欄なのに、actionそのもので終わっている個所も多い。その場合はその活動で得られる機会や有益な状況、恩恵を筆者なりに推量し、意訳して後編の表をまとめた。

QIST労働力開発戦略では、育成、開発、あるいは創出すべきQIST労働力の必要条件として、多様性(Diversity)、公平性(Equity)、包括性(Inclusion)を掲げているのが特徴であるとされている。更に今までSTEM(Science、Technology、Engineering、Mathematicsの略。科学技術発展のために重要な分野として米国で認識されている)では表に出てこなかったヒスパニック、ラテン系、黒人やアフリカ系アメリカ人、アメリカンインディアンやアラスカ先住民、障害者、女性にも光を当て、対象者を広範囲にするとしている。

多様性、公平性、包括性に関しては、例えば、応用物理学会でも第1回ダイバーシティ&インクルージョン賞の公募(参考資料4)がなされている折柄、日本でも言葉の意味が浸透しているので、それぞれの定義の説明は不要であろう。


労働力創出の難しさ

後編でQIST労働力開発戦略を詳細に紹介する前に、その内容に対する筆者の率直な印象をここでまとめておこう。詳細紹介前なので、ここでは読者が開発戦略の概要を思い描けるように心がけ、記述を進めることとする。

1.QISを拡大してQISTにしたこと自体は正しい認識だと思う。科学の応用を担う工学なくして、産業振興はあり得ない。これは改めて実用化につながる研究開発の重要性を説いた第2種基礎研究(参考資料5)を持ち出すまでもないだろう。

2.2018年のQIS戦略全容発表から4年経過しているが、QIS戦略全容で労働力開発が重要だと指摘されているにもかかわらず、今回のQIST労働力開発戦略では4年間の成果の数値はおろか、数値目標すら全く明らかになっていない。後編で記述するように、現時点では確たるデータベースがないという理由だからとのことである。従ってこのQIST労働力開発戦略はまだ労働力育成の「プラン」の段階で、極論すれば単にブレーンストーミングをしてまとめたものという域を出ていない。よく解釈すれば、それだけ産業振興のための労働力創出は"Workforce Development"という単語が示す通り、米国の力をもってしても、一朝一夕には開発できない難しい課題なのだと改めて思う。

後編で述べるように今回の労働力作業部会には軍関係者が多いので、競合国を念頭に置けば、ここで手の内をさらけ出す必要はないという判断があるのかもしれないとも推測される。しかしここでは拙速な判断は避けておこう。

3.新しい産業の担い手として、前述のようにこの労働力開発に当たっては、過去STEMではあまり表立っていなかったグループも対象に含めて、労働人口を増やそうとしている。しかしなぜこのグループからSTEMに参画する人口が少ないのか、その理由は分析されていない。STEMを避けて通りQISTのみ取り上げることはできないことを考えると、このQIST労働力開発戦略はアイデアのみで、具体策に乏しい感がする。

確かにQIST労働力開発戦略には、広報宣伝を活性化し、中長期的にはQISTの重要性を周知徹底するとか、産学共同で教育カリキュラムを策定するという提案も記述されている。また短期的には既存の人材を活用するので、人材流動性を高めるため、転職を阻害している障壁を下げるという提案なども記載されている。しかしどれも具体性はない。しかも転職を促して移籍された後、その抜けた穴をどう埋めるのかという戦略もないので、人材増にはならない。

4.ご存じの読者も多いと思うが、そもそも米国の半導体製造現場では古くからこの「STEMにはあまり表立っていなかった層」が活躍していたのは紛れもない事実である。米国工場見学後、「なんだ、現場で製造しているのは主に有色人種ではないか」という感想もよく聞かされたし、またそう感じた読者も多かったはずである。

半導体産業も、勃興した時は新産業分野であった。その時の経験を生かすべきではないだろうか。隣接する産業との協業も重要である。米国ではQISTに隣接する半導体産業が健在なので、そのような産業が勃興時に経験した解決策をよく学び、活用すべきではないかと思った。

5.筆者の経験では、人種に限らず、いかにまじめで優秀なポテンシャルを有する層であっても、確たる教育訓練スケジュールと具体的な教材、および適切な講師と教育の場が揃わなければ、教育の成果は生まれない。講師は必ずしもPh.Dである必要はなく、現場のリーダーや中核人材でよい。この戦略にはもう少し実務的な側面の補充が必要と感じた。

今回のQIST労働力開発戦略文書は、数値的な報告ではなく、概念的内容に止まっているため、敢えて筆者の印象を僭越ながら先に記載した。実施記録でもないので、必ずしも全ての読者がご興味をお持ちになられる内容とも思われない。このような文書もあることのみ受け取って頂き、適宜途中退場されても構わないと考える。

もちろん、SDGsのように、概念だけでも立派に社会貢献する場合もある。新しい分野の産業振興を図るとき、米国では人材育成、労働力創生に向かってどのように取り組もうとしているかという観点からご興味を持たれる読者には、ぜひ中編以降も最後までお読み頂き、少しでも参考にして頂ければ幸いである。日米で半導体再興に動き(参考資料6)もあるので、本稿がわずかでもお役に立てば望外の喜びである。

なお、本稿での参考資料番号は前編、中編、後編を通して共通である。それぞれの編で使用する参考資料のみ掲げているので、中編や後編では資料番号が飛んでいる場合もあることを最初にお断りしておく。

技術コンサルタント 鴨志田元孝

参考資料(前編)
1. 鴨志田元孝、「米国の量子情報科学産業振興政策からわかる国家戦略」、セミコンポータル (2022/05/26)
2. Subcommittee on Quantum Information Science, Committee on Science, National Science & Technology Council, "National Strategic Overview for Quantum Information Science", Sep. 2018
3. Subcommittee on Quantum Information Science, Committee on Science, National Science & Technology Council,"Quantum Information Science and Technology Workforce Development National Strategic Plan", Feb. 2022
4. 「第1回(2022年度)ダイバーシティ&インクルージョン賞公募広告」、公益社団法人応用物理学会
5. 吉川弘之、内藤耕、「第2種基礎研究―実用化につながる研究開発の新しい考え方」、日経BP刊、2003年
6. 例えば朝日新聞、「日米、次世代半導体で協力」、2022年7月31日朝刊

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